週末図書館

予定の無い週末、本を読もう。

ブタによる殺人はいかにして裁かれたのか(池上俊一『動物裁判 西欧中世・正義のコスモス』講談社現代新書)

世界一悲しい象とも呼ばれた象のはな子が、昨年5月に亡くなったことは記憶に新しい。1956年にゾウ舎に忍び込んだ男を踏み殺したことと、その4年後である1960年に飼育員の男性を踏み殺したという二度の事故から、はな子は「殺人ゾウ」の烙印を押され、残りの一生をコンクリートの壁の中で過ごすこととなった。

このように、動物が人を殺めてしまうという事例は世界中にあるはずであり、それは中世のヨーロッパでも同様であった。ただ一つ異なるのは、この時代に動物が殺人を犯した場合、その件について本格的な裁判が開かれていた、ということである。

 

裁かれる動物たち

 1456年、クリスマス直前の火曜日。フランスはブルゴーニュ地方のサヴィニー村で事件は起きた。仔豚に餌を与えて遊んでいた5歳の男の子が母豚に食い殺されたというのである。そんなことが本当にあるのか?だってブタでしょ?繊細な生き物だってよく言うではありませんか。綺麗好きともよく言われてるよ。 

ところがこの当時のブタは、ほぼイノシシだった。

 

当時のブタはまだ、かつてイノシシとして森中で野生をふりみだし、牙をむいてあばれていたなごりを大幅にとどめ、長い剛毛をもつ獰猛きわまりない黒ブタであり、動物の死体や生きたウサギ・ヤマウズラを食べ、したがって人間の子供を食い殺すくらい、朝飯前だったのであろう。

 

このような事件をどのように決着させるのか。非常に悩みどころではあるが、当時の慣習法では世俗裁判所で裁判を開くこととされていたそうである。裁判官主宰のもと、原告(領主)、検察官、被告ともども総出のもと開かれた裁判の結果、被告ブタ(母ブタ)は裁判所内の木に後ろ足で吊るされることとなった。つまり処刑である。一方現場に居合わせた仔豚たちは無罪となったそうだ。

このように今日なら自然に起きてしまった事故、もしくは家畜所有者の不注意として片付けられるであろう出来事に対して、それを犯罪と捉え、人間に行なうのと全く同じ手順の裁判を行なうということが、中世ヨーロッパでは大真面目に行われていたのだ。

破門される虫

裁判にかけられたのは動物だけではない。果樹園や畑を荒らして住民を困窮させた虫の軍団さえも、人間と同じように裁かれた。

1120年パリ盆地北東部の都市ラン。ぶどうの樹に対する毛虫の狼藉に絶望したブドウ栽培者たちは、金を出し合って弁護士を雇い、被災地の検分を行わせ、損害の見積もりと、加害者である毛虫の身体的特徴を書き込んだ請願書を裁判所に提出させた。手続きが人間に行なうものと変わらないのは動物の例と同様である。また、ねずみの被害もあったので、ついでにネズミも訴えた。


請願書を受けた判事は被害地まで赴き、畑で毛虫とねずみに対して大声で出頭を通告した。裁判当日には、扉を開けて時間まで待っていたが、とうとう加害者は出頭しなかった。当たり前である。

そのため欠席裁判となり、毛虫とネズミには破門が言い渡された。

なぜ、動物を裁くのか

ここまで読み進めると気になるのは「なぜ動物が裁かれるのか」ということだが、本書では興味深い説が複数紹介されている。その中のひとつを紹介しよう。

ドイツのアミラという学者が言うには、動物に対する破門制裁は異教的アニミズムにあるという。


アニミズムといえば、万物に霊が宿るという原始宗教の一種だ。つまり、神がたくさんいる。これに対しキリスト教一神教である。この2つが合わされば、衝突は避けられない。ブタが子供を殺したのは、そのブタに悪魔が宿ったからであり、このブタに対してキリスト教的な悪魔祓いの儀式を行なう、つまり裁判・破門・処刑を行なうことで、アニミズムを排除し、キリスト教的な教えを民衆に根付かせようとしたのである。

中世ヨーロッパは面白い

本書内では他にも、

・日本で動物裁判はあり得たか?

・獣姦両成敗!

など興味深いトピックが満載である。ぜひ実際に手にとって、中世ヨーロッパの面白感を味わっていただきたい。

動物裁判 (講談社現代新書)

動物裁判 (講談社現代新書)