風呂に浸かりながら温泉案内を読む(宮田珠己『四次元温泉日記』)
先日隣接する市に用事があったので行った帰り、そこの大型書店へ寄った。私が住んでいるまちには大きな書店がないので、たまに訪れるこの本屋は私の心のオアシスである。
棚を物色していると、最近発売された一冊の文庫本に目が行った。
宮田珠己の『いい感じの石ころを拾いに』(中公文庫)だ。
宮田珠己氏(以下、敬意を込めてタマキングと呼ばせていただく)の本を最初に読んだときのことはよく覚えている。
大学生の頃、立ち寄ったブックオフの棚で偶然出会った。棚を物色していると、目に飛び込んできたのはタマキングの『ときどき意味もなくずんずん歩く』だった。
このタイトルに思わず本書を手に取ってしまった。当時の私は落語を聞きながら散歩をすることにハマっていたので(今思うとどんな大学生なんだ)、「これは」と思って中身を読んでみると、これがまあ面白い。本を読んでゲラゲラ笑ったのはこれが初めてだった。
それ以来、タマキングの新刊が出るたびにチェックしている。今回見つけた石ころの本は未だ持っていなかったので即購入。あとは新書も1冊買ってみた。
家に帰り、買ってきた本を本棚の積読本スペースに収めようとしたところ、1冊の本の存在に気付く。
タマキングの『四次元温泉日記』である。
そうだ。積んでたんだった。じゃあまずはこちらを消化せにゃいかんよね。と言う訳で先に温泉の本を読むことに決めたのだった。
この本の面白さはこのまえがきを読めばすぐに分かる。
風呂嫌いの宮田クン、ついに温泉に行く。熱すぎる湯を水でうめるのはなぜいけない?家にも風呂はあるのにわざわざ出かける理由がよくわからない…。風呂なのに体を洗い流さないって???―温泉を巡る謎は深まるばかり。しかし迷路のような温泉旅館はアトラクション感あふれる異次元ワンダーランドだった!日本の名湯につかる、珍妙湯けむり紀行14篇。
温泉の本を書こうというのに、著者は自らを風呂嫌いと称し、むしろ迷路のような構造の温泉旅館に惹かれると言っているのだ。なんでも、何度も服を脱いだり着たりするのが面倒くさいらしい。ちょっと分かるぞ。
読む前から分かっていたことだが、読み進めていくとやはり面白い。タマキングの文章には人を引き付ける何ががあると思う。
そして私はこの本を主に風呂で読んでいる。一編いっぺんが風呂読書に調度良い文量なので、のぼせる前に読了できる。
はぁ、温泉に入りたい。そう思いながら、家の狭い風呂の中でタマキングの本を読み、ゲラゲラ笑っている私なのであった。
最近のことと、京極夏彦『嗤う伊右衛門』
ブログを放置していた。
本を読んでいなかった訳ではないが、「ブログを書く」という行為に繋がらなかっただけだ。
ただ最近思うのは、アウトプットの重要性である。
ブログを更新していなかった1年間程の間に、私の中を通り過ぎていった本がいったい何冊有るのかは考えたくもないが、凡そ50冊くらいだろう。
正直、何も身についていない。と思う。これでいいのか?
確かに、私は何か目的を持って読書をするということは無い。読書をして、その瞬間が楽しければそれで良いと思っている。いわゆる、趣味の読書。
たまに仕事の本を読むことはあるけれど、それは読書と言うよりは、勉強に近い何かだ。
でも、これでいいんだと思う。
読むことが大事だ!小説でも、ノンフィクションでも、実用書でも、たくさん読んで、お気に入りの1冊を見つけることが大切だと思う。
書店に行って店内を周り、何も買わないという事をよくやる。
店員からしたら冷やかし以外の何者でもないかもしれないけど、私にとってはとても楽しみな時間である。
新刊本を漁ったり、欲しいと思いつつ買ってなかった本が無くなってしまったの見てやるせない気持ちになったりと、私にとって本屋はある種のテーマパークだ。
今日も仕事の帰り際、書店に寄った。いつもぶらついてる店とは違う所に敢えて寄ってみる。
それぞれの本屋の個性を感じながら、棚を物色する。
お目当ての品を見つけたら、買ったり買わなかったりする。
今日は京極夏彦『嗤う伊右衛門』の中公文庫版を見つけたので思わず購入してしまった。
京極夏彦は好きでよく読む作家だが、京極堂が活躍する「百鬼夜行シリーズ」以外はあまり読めていない。
『嗤う伊右衛門』を始めとする、「江戸怪談シリーズ」の文庫には角川版と中公版の二種類があり、表紙の好みの問題から、中公文庫版をずっと探していた。
と言ってもAmazonで買えばすぐに手に入るのだが…。
今年になって京極夏彦の新刊が多く出版されている。気がする。
「今昔百鬼拾遺」もまだ読めていないが、最近やっと『邪魅の雫』を読了したのでそろそろ読もうと思う。
「いつ」本を読むのか
今回は本を読む「場所」について、色々と考えていきたいと思います。
続きを読む